インディアナ

(過去ログです)
昨日の 瞑想会で 面白い体験がありました。
ちょうど 瞑想中に お友達の事を 考えていたんです。
お友達は 自営業で、もっと会社を大きくしたいと思っているらしく、
勉強やら、従業員のケアーやら、努力しているようでした。

「私に 何かしてあげられる事って ないのかな?」と 
思っていたら、 大昔に見た 映画のシーンが登場しました。
「インディージョーンズ 最後の聖戦」
インディが 最後に取れそうで取れない聖杯に手を伸ばすシーンで、
お父さんが 息子の名前を呼ぶシーン。これを 想い出しました。

この映画 23年前の 映画なんですね。
主役の考古学者 インディ‥ジョーンズは 
ハリソン・フォードが 演じます。
同じく考古学者の お父さんを ショーン・コネリーが 演じます。

聖杯は 考古学者の 二人にとっては 幸せ、宝の象徴です。
お父さんは 息子である インディの事をずっと
「ジュニア」としか 呼びません。

過酷な 冒険の末、 聖杯が手に入る直前に 
地震で洞窟が崩壊していきます。
インディは もう少しで 手に入りそうな 崖の下の聖杯に 
一生懸命 手を伸ばします。
その時、初めて、お父さんが「インディアナ」と
息子を 名前で呼ぶのですね。

こうやって想い出すと なんという 名シーンなのでしょうか。
聖杯が手に入ろうが なかろうが 
お父さんが息子を 愛してることに変わりないのです。

インディが 聖杯から 手を引っ込めたのは、
「愛が伝わった瞬間」 なんですよね。
私が お友達にしてあげられることは 何かと言えば、
「頑張ってね~」じゃないって事です。
ただ 愛してる事を 折にふれて 表現してあげる事ですね。

なぜなら、私は お友達の 会社が大きくなろうが 
縮小しようが、 勉強してようがしてまいが、
金持ちになろうが 貧乏になろうが、
好きだという気持ちには 何の変わりもないからです。
どうだっていいこと なんですよね。

皆さんは 身近な愛する人々に 愛を伝えているでしょうか?
親や 子供 パートナーや 恋人 お友達 同僚
愛ほど 素敵なものは この世に ありません。

不可能は 可能に・・

2013-04-23 12.10.05

平日でも
人が大勢でしたよ

東北に 一泊旅行してきました。
桜が咲いていて、大阪の桜を見逃した
私としては 嬉しかったです。

時間は 過去に遡る事はできないけど、
桜を見ることで、時間を取り戻したような 
気分になりましたね。

美術館(若冲展)、松島、作並温泉と
目の保養&リフレッシュになりましたね。

東北は 空港降りた時の 空気が新鮮で、美味しいです。
東北を遠いものと思ってましたけど、
LCCの普及や 飛行機の手続きなどが
簡単になって、意外と近く感じました。

芭蕉は 東北の名所で 沢山の句を残してますが、
松島の月を見ることに憧れて、旅を始めたそうです。
けれども、松島では、その素晴らしさに・・
句を残してないそうです。
芭蕉の時代には
松島を旅することも 命がけだったと思います。

ちょうどそれを 自分の事に置き換えたなら、
ギアナ高地の エンゼルフォールを旅する位の
覚悟だと思います。(実際に・・旅できるのかしら?)

有難い事に 世の中は どんどん、便利になってます。
不可能だと思ってることが 可能になってきてる。

動くまでは 面倒くさかったりしますけど、
動いてみたら 意外と簡単に進む事って、
沢山 あるのかもしれないと思えた旅でした。

具現化する知性

この間、リタム(具現化する知性)の 面白い質問を いただきました。
自分が観たものが、リタム(具現化する知性)なのか?
マインドが 作り出している幻想なのか?
リタムとリタムじゃないものの 区別が つきません
って 質問でした。

これに関して、仮説でしか お答えできませんが・・・
なぜかと言えば、自分がこれはリタムだと 思ったものは、
すべて 現実化している為、失敗のデーターが ありません。
だから あくまでも 仮説です。
私の見分け方ですが、リタムの場合は、
とても 透明感があり、 クリアーで鮮明です。
そして静寂が あります。
シンプルで 立体的である事も あります。
非常に そこに知性を 感じます。
そして、努力しなくても 時期が来れば 現実になっています。

多くが、当時としては、「ウソだ~」「エ~」って
マインドが びっくりするような事です。
けれども、将来的には 現実に なっています。

リタムは知性だからこそ、
当時の自分が全然、 気づきも及ばない事 ばかりなんです。

自分が気づいている事を 教えてもらっても、驚きませんから。
もしも、自分が毎瞬 毎瞬 すべてを 知っていて、
知性にあふれている存在であれば、リタムを見ないはずです。 
教えてもらう必要がないからです。

>自分が観たものが、リタムなのか?
>マインドが作り出している幻想なのか?

この質問に対する答えは・・・
どうだって良いのです(笑) 

要するに、使えるかどうか  そっちの方が 大事なんですね。
仮に、マインドが 作り出していて、
それを ご自分が 気に入ったのであれば、
それを 具現化していけば いいじゃないですか!!
「こうなると いいな~」と感じてみる。
こんな遊び心 って 大事なんだけどね。
「自分の人生は 自分で創造するんだ」と思って、
そこに夢を持って エネルギーを 注いでいけば
よいのではないでしょうか? そうしたら、具現化します。

具現化しちゃったら それは、
結局、マインドが作り出した 幻想であっても、
自分が 観たものを 将来的に受けとっている訳ですから、
具現化した知性 つまり リタムと 結果的に 同じ事ですね。

反対に、どんなにクリアーで100% リタムだと言い張っても
自分が信じられなかったり、その方向に進むことを抵抗したら、
きっと、現実には 起こらないでしょう。
すると、それは結局、この時点で
リタム(具現化する知性)とは 呼べなくなります。
マインドが作り出した 幻想となります。

正しいか? 間違いか? よりも
自分がそれを 現実として 欲しいのか? 欲しくないのか?
こっちの方が 大事なんですね。

受け取り下手

おまえは・・本当に・・
可愛すぎるんだよぅ

「受け取り上手に なるには 
どうしたら いいですか?」
上記は プロスぺリティ・マントラで 
よく頂く質問です。
人間の問題は 愛や豊かさの前に
受け取り過ぎる事 ではありません。
開く事を許さない そちらが 問題なんです。

女神だったら
「どうか お願いだから 受けとる事を 許してちょうだい」
と 思っている事でしょう。
瞑想中、不器用な人でも 受け取れるように
ゆっくりとソーマが流れます。
ソーマは 私たちの 知覚を 神のような 精妙な認識に
変えていくホルモンです。
これを 内なる目で 観る時は、
ミルクや 生クリームのような感覚で ゆっくりと
流れるのを観る事が あります。
ソーマによって 感覚が変化する時、 磁気的な 波動で、
物や人の中にある 知性が 引きよせられてきます。
持ち物や 付き合う人間関係が 自分に 心地よいものに
ゆっくりと 変化していきますよ。
そして、普段 気づかないだけで 
存在する 愛や豊かさを 理解し始めます。

受け取りベタだと 自分の事を 思っている人は
自分が「受け取り上手な人」に なったふりして 瞑想してくださいね。
「受け取りベタだしな~」と思っていると、
その通りを 創造していきます。
受け取る事で 私は ネコから 学んだ事が あります。
昔、我が家の近所に 捨てられたネコがいて
「アメリー」と名づけて可愛がってました。 
                                    
アメリーちゃんは 自分が 捨てられた事に 最初、
全然、気づいてなかった(笑)
捨てた人の事情は 知らないけれど、
間違いなく 可愛がられ、 人間の愛をもらった上で、
捨てられた ネコでした。

だから 捨てネコなんだけど、我が家の敷居を超えて
部屋の中に 勝手に上がりこんで ご飯を 要求してきました。
貰える事が 当然と思ってるから
無邪気に「ごはんまだか ニャ~」って なくんです。
我が家は 「ネコ禁止」 どころか、
見つけたら「こらぁ~」と どつきまわすような 家風でしたが
さすがに アメリーの無邪気な 態度には、可愛すぎて
こっそり ご飯を 与えてしまいました。

「もらえないのが 当然。」だから奪おうとする 野良猫の意識と
「もらえることが 当然。」だから無邪気に待ってる
捨て猫 アメリーちゃんの意識。
最初の 意識が 違うのです。

受け取れないって人。 最初の 意識が 間違ってませんか?
色んな事に傷ついて 世界に 期待しなくなっている。
この気持も わかるけどね。 世界に 夢を持つ 期待をする。
こんな 無邪気な態度は 必要かなと 思います。
アメリーのように 無邪気に ただ存在して 待つ。
だって・・瞑想って 年月を経て もっと 受け取れるから。
 逃げずに「在る」です。 受け取る事のコツ これにつきますよ。

タラの善行体験

今日の瞑想体験は、苦しい出来事の際に 
空が 私に示した善行についての 新しい認識ですね。

それまでは 私は
「なぜ私のところに 瞑想を人が 習いに来る のか?」 
それは 「私が 努力をしているからだ!」と 思っていました。
「努力の結果を受け取ってるのは 当然でしょ!」
と 思っていたんですね。
けれども 本当のところは 人がやってくる 
理由は  ほとんどが(過去に)行った 善行によって
「今世も 一緒に楽しく やろうよ~」 こんな 理由から 
瞑想を 習いに来ていたのです。

別に 私が 瞑想を教えてなくても 縁があったのかもしれない。
努力をしてなくても 縁があったの かもしれない。
これには ビックリです。

私が どうあろうが 支えてくれる人々の 存在に 涙が 出ました。
また 善行の意味も 私が思っているものと 全然、違ってました。

善行とは 掃除したとか寄付をしたとか、苦労を 引き受けたとか、
そんな事だと思っていましたが、全然、違う。
おそろしい程、 巷で 知られているものとは 違うのです。
一緒に 遊んだ事や いたずらして 笑った事や 
簡単には 貸し借りがない 摩擦がなく 流れるエネルギーが、
本当の 善行なんです。
見返りを期待していると すでに もう善行では なくなっているのです。 
これが タラの教えですよ。
やったことすら 忘れている 親切や 笑顔の行為の 数々が 善行です。
反対に 私が(過去に)した 些細な行為を
「かたじけない。返さなくては・・」 と 相手が 大真面目に 
受け取ってしまい。 今世 出会ってる魂達も 少数いました。
「たったこれだけの行為を 
あなたは、かたじけないと 受け取ったのですか!」
と、これまた ビックリ。
ここには ダルマと違い ハートの ぬくもりよりも、先に
返さなくては・・の義務という名の 固さがあります。

人間が 自分で 制限を加えていく様を 知りました。
義務じゃなくて 単に 楽しめばいいだけなのに ・・・
瞑想は 単純に めちゃめちゃ 楽しいものなのにね。
また 私と縁があるけれど 
「今は 出会えない ごめんなさい」と 思って、
遠くで、詫びている 魂もあった。
「こんな事。思う必要も 詫びる必要も ないのに!」
これには 悲しいものがあったが、もっと 自由になればいい のに 
と思うし、これを観て、自分が 人の自由に対して、
制限を加える事は したくないな~と 思いましたね。
だって・・瞑想を 教えているんですよ。
人の自由に 制限を加える事は カルマを 新しく 作り出すこと だからです。  人は自由だから。自分から 摩擦を 作りたくはない のです。
そう思うと 私とは 縁がなくても 私の書いたブログや メルマガが理由で、
瞑想や スピリチャルに 興味を持ち どこかの知らない人から 
瞑想やヒーリングを 習っていたとし ても 
その縁を 私は 尊重したいですね。
私とは 縁はなかったかもしれない。 けれども どこかの誰かと 
縁があったからです。
これまた その人達の間にある ダルマ なんですよ。
これは セラピーやヒーリング すべてにおいて 云える事だと 思いますね。
そんな事で印象の残った瞑想体験 タラの認識 「善行の 深い意味」です。

若冲が来てくれました

この間、美容室で待ち時間に読んだ 和楽4月号
江戸時代の 絵師 伊藤若冲の特集が 面白かった!
画集とは違った内容で、挿絵も素敵でしたね。

若冲は禅宗でした。
空(くう)は 虚無じゃないってこと。
「虚しい空っぽ」だとしたら・・
まだまだ 自分が道の途中なんです。

若冲の絵は禅のイメージとは裏腹に、鮮やかな色づかい。
仏の道で 生涯独身だったのですけど、
とても色っぽい絵を描いてるのです(特に鳥や雪)

動植物を 細かく描く集中力は 世界に対する好奇心ですから
感覚が世界に向いてる。これってシャクティですよね。

空(くう)が 満ちて拡がる時、 
シャクティとなって放出されていきます。

そして シャクティは創造性でもあるし、
惹きつける魅力でもありますから、
精力的で、面白い絵を 沢山 書いているのです。

若冲の 生家は 錦市場の青果問屋なんですけど、
仏陀を野菜の大根に見立てて 周囲の人物も野菜で、
釈迦涅槃図を書いてるのです。なんて面白い発想でしょう!

お世話になった相国寺に 絵画を山ほど寄贈してるところも
無尽蔵 大盤振る舞いの 金タラちゃんのようです(笑)

若冲は どんな人だったのかな? 
私の想像では、愛情を沢山受けて育った人ですね。
自分が受け取ることが出来てはじめて、
世界に返していけますから、これだけの エネルギーを
放出できるのは 愛情を受け取ってる証拠だと思うのです。

今、アメリカの プライスコレクションが
東日本大震災復興支援の一環として、
東北の3美術館で展示されています。